[≪2≫ 捨ててこそ見える世界がある
捨ててこそ見える世界がある。
今まで構築してきたもの:自分の立場とそれに基づく考え、地位、職業、社会的影響力、自分が成し遂げてきたこと等、…これらが、自分の限界をつくる原因となることを、肝に銘じなければならない。
人はえてして自分の過去を大切にしたい。
なぜなら、それは、現在只今の自分の存在を肯定することだからだ。
そして、自分を肯定する代わりに、それが限界をつくる枠組みとなり、その枠に入れない人を理解していくことが困難になる。
自らの立場や役割、それに基づく考え方を一度捨てない限り、他の人の良さ、人々がどのように融合していけばよいかが、全く見えない。
例えば人体において、あなたが多くの栄養を消化する「胃」の役目を果たしていたとしよう。ありとあらゆる難問を消化するその姿は、非常にアクティブで、注目を浴びる存在である。
そんなあなたから見ると、「足の爪」は、果たしてどのような存在に見えるだろうか?
おそらく、その存在すら気にとめていないに違いない。もし、気付いたとしても、「足の爪」自身が積極的に活動しているようには見えず、足の指先に貼りついている、無駄な存在としか認識していないかもしれない。
では、「足の爪」の存在がなかったらどうか?足の骨は傷み、力強い一歩を踏み出すことも、足を踏ん張ることもんできない。「人」として跳躍することはもとより、移動にも支障をきたす。
「胃」の立場や働き、その存在に求められる正しさをもってしては、「足の爪」の存在意義や正しさは推し量ることはできない。
自らの「胃」という役割を、一度捨てない限り、「足の爪」のよさや、「足の爪」の貢献度は理解できない。「足の爪」と融合して大きな「人体」として仕事を成し遂げるには、「胃の立場」・「胃としての正しさ」を捨てなければならないのだ。
捨ててこそ、見えるべき世界が、見えてくるのだ。
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更に、「自らを伸ばす」ということが、 「自らのみ伸ばす」という考えになったとき、他の存在から自らを分断する行為となる、ということにも触れておきたい。
「胃」が胃として単独で活躍しても、何の意味もなさない。その「胃」が消化した栄養分を吸収し、それを血管が体の隅々まで運び、そしてその栄養を有効活用し、大きな仕事をなす「体全体」の働きがあってこそ、「胃」の存在意義は認められるものとなる。
このような、 「自と他で素晴らしいものを創っている」という認識のもと、いちど自分の理解できなかった人の「存在の意味」を考えてみることを勧める。
その存在は?目?耳?鼻?内臓?血管?リンパ?体毛?神経細胞?それとも…?
果たしてそれは、どの役割を果たし、どのような意味を持つものなのか?
そして、その存在が機能しなければ、「人体」はどうなるのか?
まつげ、一本一本にも、その存在に意味がある。
捨ててこそ見える世界を、見つめてみることは、仕事における「悟り」のポイントである。
今まで構築してきたもの:自分の立場とそれに基づく考え、地位、職業、社会的影響力、自分が成し遂げてきたこと等、…これらが、自分の限界をつくる原因となることを、肝に銘じなければならない。
人はえてして自分の過去を大切にしたい。
なぜなら、それは、現在只今の自分の存在を肯定することだからだ。
そして、自分を肯定する代わりに、それが限界をつくる枠組みとなり、その枠に入れない人を理解していくことが困難になる。
自らの立場や役割、それに基づく考え方を一度捨てない限り、他の人の良さ、人々がどのように融合していけばよいかが、全く見えない。
例えば人体において、あなたが多くの栄養を消化する「胃」の役目を果たしていたとしよう。ありとあらゆる難問を消化するその姿は、非常にアクティブで、注目を浴びる存在である。
そんなあなたから見ると、「足の爪」は、果たしてどのような存在に見えるだろうか?
おそらく、その存在すら気にとめていないに違いない。もし、気付いたとしても、「足の爪」自身が積極的に活動しているようには見えず、足の指先に貼りついている、無駄な存在としか認識していないかもしれない。
では、「足の爪」の存在がなかったらどうか?足の骨は傷み、力強い一歩を踏み出すことも、足を踏ん張ることもんできない。「人」として跳躍することはもとより、移動にも支障をきたす。
「胃」の立場や働き、その存在に求められる正しさをもってしては、「足の爪」の存在意義や正しさは推し量ることはできない。
自らの「胃」という役割を、一度捨てない限り、「足の爪」のよさや、「足の爪」の貢献度は理解できない。「足の爪」と融合して大きな「人体」として仕事を成し遂げるには、「胃の立場」・「胃としての正しさ」を捨てなければならないのだ。
捨ててこそ、見えるべき世界が、見えてくるのだ。
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更に、「自らを伸ばす」ということが、 「自らのみ伸ばす」という考えになったとき、他の存在から自らを分断する行為となる、ということにも触れておきたい。
「胃」が胃として単独で活躍しても、何の意味もなさない。その「胃」が消化した栄養分を吸収し、それを血管が体の隅々まで運び、そしてその栄養を有効活用し、大きな仕事をなす「体全体」の働きがあってこそ、「胃」の存在意義は認められるものとなる。
このような、 「自と他で素晴らしいものを創っている」という認識のもと、いちど自分の理解できなかった人の「存在の意味」を考えてみることを勧める。
その存在は?目?耳?鼻?内臓?血管?リンパ?体毛?神経細胞?それとも…?
果たしてそれは、どの役割を果たし、どのような意味を持つものなのか?
そして、その存在が機能しなければ、「人体」はどうなるのか?
まつげ、一本一本にも、その存在に意味がある。
捨ててこそ見える世界を、見つめてみることは、仕事における「悟り」のポイントである。
この記事へのコメント
>自分を肯定する代わりに、それが限界をつくる枠組みとなり、その枠に入れない人を理解していくことが困難になる。
そうですね・・・。
自分も寛容な心をもって人を理解しようとする気持ちをもつ一方で、↑の様になりつつあると感じる時があります。
その方が自分も疲れないし、楽だから・・仕事の場では尚更。
余計なストレスの種は作りたくないと漠然と思って避けている事って結構ある様です・・・。
ひとつの仕事を長く続け、その中で自分がそれなりにやって行く術を身につけるにつれて、この傾向は強くなる気がしますね~。
人を理解しようとする前にバリアを張ってしまう人間関係って多いなと思う私もそうしているのかも。
うーん、これって「まさに!」って言葉ですね!!
なんか、保身が働くって言うか、無難に済ませたいっていう思いが働きますよね。
私が勉強になったのは、飼い犬のコロです。
コロは、私がどんなに叱っても、無邪気に懐に飛び込んできます。
その姿を見て、「偉いなー!」「これは処世術の見本だ!」と
と、素直に感動しました。
だって、こちらも心を開かざるを得ないんですから!
そのおかげで、ちょっと難しいと評判の職場の先輩にも可愛がっていただいてます。コロ先生、ありがとう!
他者の存在のありがたさですね。
職場でそれぞれの職務を果たすヒトたちの姿が、頭をよぎりました。それぞれが、それぞれの仕事を果たしてこそ、前に進める。誰がいなくても、完成しない・・。
>自らの立場や役割、それに基づく考え方を一度捨てない限り、他の人の良さ、人々がどのように融合していけばよいかが、全く見えない。
ムムム、一度捨てない限りですね~。
立ち位置をかえるだけでも見えてくるものが違うんでしょうが、難しいです。。ちょこっとくらいしか、できないです・・・。
メッセージありがとうございます。
人は、知らず知らずに自分の都合の良いように考えたり、既成概念・先入観でものを見るクセがあります。
「一度捨てる」とは、そういった「自分のクセをとりのぞくことが大切だ」と思って、もう一度物事を見直してみる決意をすることです。そういう決意をして再思考してみると、見えてくるもの、感じるものが変わってくるのを経験します。時々心が波立ったとき、「自分の都合で他人を思い通りにしたかったのではないか?」と問いかけ、できる限り「自分の都合」を捨てて考えてみると、相手の気持ちを推し量ることができ、苛立っていたことが申し訳なくなります。我ながら「自己チューだな」と、恥ずかしくなるときです。でも、そのまま自己チューでいるよりマシか・・・と前向きに思うと、心が切替わりやすいですね。
最近のブログはメッセージ機能を停止させていたので、
メッセージが入っていることに気づきませんでした。