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2009/03/22 10:25
「人間は、不完全であることを前提として、
その存在を許されている。」
これは、驚きの事実です。
不完全であるということは、
自分以外のものを必要としているということであり、
生きている、ただ、それだけで、
他のものの力をいただき続けている存在だということです。
そして、それでも、なお、存在を許されている
この事実を深く鑑みるとき、生かされていることに謙虚になれます。
誰の世話にもなっていない
誰の力も借りていない
自分ひとりで生きている
こう反論される方もあるかもしれません。
しかし、考えても見てください。
人間は、なぜ食べ物や栄養を必要とするのでしょう?
小麦や野菜、果物、お肉・・・
何かを口にし、消化し、吸収することで、
はじめて、人間は生きることができています。
何か
を食べないと生きていられない
しかも、果物は吐き気をもよおすほど不味く、
穀物は、それを食すると頭痛をおこす・・・そのように、
人間に食べられることを拒絶する存在ではありません。
あくまで、美味しく、栄養に満ち、エネルギーとして変換し易い
「食べられることを前提として」存在しているかに思えます。
こうして、自分ひとりでは生きてゆけない存在が、
生かされている。
不完全な存在であることを前提として、
生かされている。
そして、不完全な存在であることを許され、
その不完全さを互いに補う形で、
世界が創られている。
この事実を深く深く味わうことで、
自然に、自分の存在というものを
謙虚に考えるようになってくるのではないでしょうか。
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ここで、老婆心ながら、
「謙虚さ」と「自己否定」の違いを述べておきましょう。
不完全な存在であるということを認めても、
その不完全さが許せない「潔癖症の性格」の人がいます。
なぜ、このように、自分は何かを犠牲にしながら生きているのか?
なぜ、傲慢で、間違い多き人間なのか?
自分が存在することが、そもそも罪なのではないか?
そのように、自己否定することもできるでしょう。
しかし、ただでさえ、不完全にして、生かされている存在が、
自らの不幸や自己処罰の念で生きたからと言って、
何も産出さず、誰もメリットを享受することはできません。
実は、「自己否定」の深層心理は、「自己愛」です。
「自分が不完全なのは自分のせいではない。
自分としては完璧を求めている。
自分としては何も犠牲にせず生きたいと思っているんだ・・・」と
自分を正当化させるために、
他の人の目線に先立って、自己防衛・自己否定をしているのです。
誰も責めてはいないのに、
「正しき自分」が、「弱き自分」を先に責めることで、
正しき自分の正当化、論理武装をしているのです。
このように、他人に責められる前に、
自己内部に育てた他人の目線(他人が正しいと考える自分)で、
先立って自分を責めることで
実は、無意識に自己防衛している、それが「自己否定」です。
結局、自分のことしか眼中にないのです。
しかし、「謙虚さ」には、他者への感謝があります。
不完全であることを自覚し、
その不完全なる自分が、あえて生かされているならば、
自分を育んでくださっているもののために、
何かプラスを生み出そう!
世の中に、生かされていることへのご恩返しをさせていただこう!
このような考えに至るのが、謙虚さです。
そして、謙虚さは感謝を含むがゆえに、
素直にして、自分を飾らず、
一つ一つできることからプラスを産出すという
プラスの歯車を動かし始めるのです。
不完全な存在であることを前提として
生きることを許されている・・・と感謝すること。
だからこそ、不完全な存在としての謙虚さを持ち、
世の中にお返しをしていこう・・・と考えること。
これは、とても心穏やかにして、
しみじみとした幸福を味わうことのできる
心の処方箋なのです。
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そして、不完全な存在としての謙虚さと、
多くの協力をいただいていることへの感謝を持つ人は、
実は、思いがけない成功をもたらすことが多くあります。
その心の穏やかさは、他の人にとっても心地よいものであり、
安心感をもたらすからです。
例えば、成功しよう、成功しようと
出世欲や名誉欲でギラギラしている人を考えてみてください。
その人も、不完全な存在であり、
その人の成功は、なにかの犠牲の上になりたっています。
しかし、その成功に至るまでの
多くの人の支えに感謝することもなく、
自分の力で成功したと思い込んでいる人ならば、
その傲慢さゆえに、
他の人にとって不愉快な存在に感じられます。
そして、成功へのエネルギーが枯渇し、力を失いかけたとき、
機会があれば、失脚させたいという
否定の集合想念の渦に巻き込まれ、あっという間に沈んでいきます。
しかし、感謝と謙虚さは、
他の人にも心地よい温かさを持ちます。
それは、まるで春の日差しのように、
人間的な温かみを持ち、成長のエネルギーに満ちています。
そして、人々は、安らぎを感じ、共感したくなります。
心地よい存在だからこそ、
その人の成功を、多くの人が肯定し、
協力してくれるようになる。
心地よいものには、もっと存在して欲しいと思う、
それが、人間の心理であり、
だからこそ、多くの協力者があらわれ、
我ならざる力によりて、
その人が成功の軌道を歩むことができるのです。
それが、謙虚さと感謝に満ちた人が
自然に成功していく理由です。
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そして「不完全さの自覚」のもう一つの効用として、
「ありのままの自分」「ありのままの他人」「ありのままの現実」を
肯定する、心の余裕が生まれる・・というものがあります。
そもそも、不完全なる存在として許されているならば、
何ゆえに完璧を求めるのか?
自分にとっての完璧さなど、
広大な許しの世界、包容の世界において
小さな砦に立てこもってガンジガラメになっている
偏狭な自我でしかない!
このような心境に至ることができるのです。
そして、自分の中にも、不完全さをも受け入れる「包容力」
ありのままを肯定する「心の余裕」が醸成されてくるのです。
そして、この「心の余裕」は、素直な問題認識に繋がります。
そもそも不完全な存在であると知っているからこそ、
完璧でない理由を素直に受け止め、
改善のための愚直なる努力を、
コツコツと実行することができるのです。
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不完全であることを前提として
存在を許されているということに関して述べてみました。
時折、この考えを持つことで、
ガンジガラメになった心を解きほぐし、
生かされている、ということ自体が幸福であるということを
考えてみるのもよいのではないでしょうか。
ただし、「許されている」という甘美さから、
最初は、感謝から報恩の力に至っていたものが、
現状への満足、停滞、という甘えの構造に繋がり易い
という傾向を持っています。
あくまで「感謝からのお返し」というプラスを産出す行為に至って
この思考が威力を持つものとなる、
・・・ということも述べておきたいと思います。
以上、何か一つでも、お役に立つことがあれば、幸いです。
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